日本一、残念な神職のいる水鏡天満宮

福岡といえば、「天神」この地名の由来となった天神様をお祀りするのが、当宮。

何度も福岡、天神に来ているのに初めて知ったのでとにかくお参りしたくて、伺いました

残念ながら、神職の方の人格が文字に現れています。それはそれで珍しく、貴重な御朱印かもしれません



とにかく、人として他人に接する態度があまりのも酷い方でした。


何箇所もお詣りしていますので、過去にも何度も「お詣りはお済みですか?」という問いかけはありました。こちらでも聞かれたのですが、いかにも疑いの目で、訝しがっている声のトーンで、聞いた人の気分を悪くさせる口調で、「お参りはしたのか?」と。100%疑われていました。

それほどまでに御朱印をスタンプラリー的に扱う人達が多いのかな、と相手の神職さんの気落ちになって考えると分からなくはないですが、探して、訪れてかなり丁重にお詣りしている東方としては、この言い方は幾ら何でも酷い、酷過ぎると感じました。

沖縄から北海道まで幾つもの社寺に訪れてここまで酷い対応をされたのが初めてでした。


日本で一番お詣りして気分を害する神社だと感じました。


二度とお詣りに伺うことはないと思いますが、氏子さんたちにはこのような態度をとっていないのでしょうか。あれほど酷い対応を他人、とはいえ、お詣りにきてくれている人に対してあのような対応をされる方なのでどなたにも同じようにされているのでしょうね。


お気の毒な感じすらします。


せめて役所的に事務的に対応すればこちらも少なくとも嫌な気分にさせられることはなかったのでしょうから、そういう態度しか取れない気の毒な方だったのだと諦め、忘れようと思います。

第一番の目的はお詣りすることであり、心を込めて参詣し、お願い事もしっかりとお伝えし、神聖な気持ちにさせていただける静寂の時間を楽しんでおり、お伺いした証として御朱印を拝受している、という気持ちと感謝の態度は忘れたことはありませんので、出来得る限り丁寧に御朱印をお願いしたつもりでした。

あまりにも衝撃的な対応でしたので、慌てて記入いただくページを探し出して、お渡ししたところ、迂闊にも透明のビニールの御朱印帳カバーを付けたままお渡ししてしまいました。

横柄で感じが悪い神職の方が更に感じ悪く、ぶっきらぼうに、投げ返すようにカバーを放り投げ、「カバーは外して渡すもんだ」とのこと。

これについては、書き入れていただく方のことを考えると全くその通りで、過去にも同様の指摘をいただいたこともありましたので、当方のミスなのですが、ここぞとばかりに投げ捨てるように言い放たれ、お詣りをした清々しさや神聖な気持ちが全て吹き飛びました。


菅原道真の大宰府左遷

901年正月に従二位に叙せられたが、間もなく醍醐天皇を廃立して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀ったと誣告され、罪を得て大宰員外帥に左遷される。宇多上皇はこれを聞き醍醐天皇に面会してとりなそうとしたが、醍醐天皇は面会しなかった。


大宰府は大宰帥(だざいのそち)が長官、権帥(ごんのそち)は長官代理。大宰権帥は中央で失脚した大臣経験者が左遷されることも多く、その場合には通常の権帥とは区別するために「太宰員外帥 ( だざいいんがいのそち)」と呼ばれていた。道真もこれである。

この左遷の際に、博多に上陸したとき、清流を水鏡として姿を移されたので後世その地に社殿を建てて水鏡(すいきょう)天神と言った


ビルに囲まれて静寂ととも佇む



奥に長い境内でした

この左手の建物が寺務所です


延喜3年(903年)大宰府で生涯を閉じられた際「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」との遺言から御遺骸を牛車で運ぶ途中で車を曳く牛が座り込んで動かなくなり、やむなく付近の安楽寺に埋葬したという故事に由来。

国宝「北野天神縁起絵巻」の序文には門前にて休む茶色と黒色の牛が描かれており、絵巻物の巻五には道真の御遺骸を運ぶ茶色と白色のまだら模様の牛が描かれています。

絵巻の詞書には「筑前の国四堂のほとりに御墓所と点しておさめん奉らんとしける時、轜車道中にとどまりて肥性多力の筑紫牛曳けども働かず其所をはじめて御墓所と定めて今の安楽寺と申すなり」

絵巻に登場する牛と菅公の深い繋がりがわかります。

主祭神 菅原道真 社格等 村社

<アクセス>

西鉄福岡(天神)駅下車 徒歩5分。駅から中洲方面に向かいます



Go!! 御朱印

心願成就を祈念して各地の寺院、神社を巡ります。 普段、歩かない生活ですので最寄駅から移動は徒歩です。健康のためにも歩いています。 御朱印は、参拝の記録、証として神様の御印であり、お札やお守りと同じように大切に扱います。

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