東京・蒲田のパワースポット。女塚神社、蒲田八幡神社の兼務社
「蒲田八幡神社」の兼務社になっており、各社の御朱印は、「蒲田八幡神社」で拝受可能です
「蒲田八幡神社」の兼務社である5社を巡って、最後に「蒲田八幡神社」で御朱印を拝受しました
2018年6月9日、真夏のような炎天下のもと、京急蒲田駅を起点に北野神社、椿神社、薭田神社、女塚神社、御園神社6社を順次巡ってきました
薭田神社から女塚神社に向かいます。まずは、大田区立 蒲田小学校方面へ。
当日は、運動会でした
JR京浜東北線の線路を超えることになります。
地下道への入り口です
線路を超えるとテレビCMでも時々見かける 日本工学院専門学校 の巨大なビルが現れます
日本工学院専門学校を右折して、駐車場の手前を左折します
細い道を進んで行くと
女塚神社の鳥居が見えてきます
御祭神:誉田別尊命
応神天皇(おうじんてんのう)、第15代天皇。 誉田別尊(ほむたわけのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)。誉田天皇(ほむたのすめらみこと/ほんだのすめらみこと)、胎中天皇(はらのうちにましますすめらみこと)とも称される。 八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)は、誉田別尊命・応神天皇と同一であり、清和源氏、桓武平氏など全国の武家から武運の神(武神)として崇敬を集めた。
創祀 : 不詳
新田義興
- 生誕:元徳3年/元弘元年(1331年)
- 死没:正平13年/延文3年10月10日(1358年11月11日)
- 父は新田義貞(次男)、母は不詳
- 南北朝時代
- 矢口にある新田神社に祀られている
- 父義貞の戦死後、越後に潜伏
足利尊氏が没した半年後の1358年(正平13年/延文3年)、義興は尊氏が亡くなったタイミングで鎌倉奪還のため挙兵。
これに対し尊氏の子で鎌倉公方の足利基氏と関東管領の畠山国清は、竹沢右京亮(もと義興の臣下)と江戸遠江守にこの迎撃を命じた。
竹沢右京亮は京都から16、7歳の少将局という美女を義興に与えて巧みにとり入り、謀殺の機会を狙った。竹沢右京亮は暗殺計画をたて、宴に義興を呼び出そうとしたが、暗殺計画のことを知った少将局は義興公に文をとどけ、義興がその招待に応じないようした。
このため竹沢右京亮は少将局を殺害し、死骸をそのまま捨て置きましたが、村民が憐れんでまつったのが女塚であると言います。
義興は、江戸遠江守とその甥江戸下野守の協力を求め、江戸遠江守は甥の下野守とともに三百余騎を率い、一族の蒲田忠武も首謀者のひとりとして参加。10月10日(11月11日)、義興と主従13人は、多摩川の矢口の渡しで謀殺された。享年28。
義興の死後、矢口の渡しに夜「光り物」が現れ、往来の人を悩ました。村老等が墳墓を築き、社祠を興し、新田大明神として奉斎。 大田区矢口1丁目に鎮座する新田神社です。義興に命をかけて忠誠を尽くした少将局は、今では新田神社からほど近い女塚に神としてまつられています。
女塚古墳の由緒
左側の鳥居の奥に古墳のようになっています。義興に命をかけて忠誠を尽くした少将局は、今では新田神社からほど近い女塚に神としてまつられています。
御朱印帳は種類がたくさんあり、思い入れの強い神社でお授けいただける御朱印帳があれば、買い足してしまいます。
大切なお守りですので大切に保管したいものです
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